図解 比叡山のすべて

図解 比叡山のすべて (別冊宝島 2228)

比叡山は行ってみたものの、広くてどこがみどころかわかりにくかった。ちょうど直前にブラタモリがあったので、そこで紹介されていたところは見たけれどね。

 

本を読んだけど、それでも見どころはたくさんあってやっぱりわからない。いちばん有名なのは不滅の法灯がある根本中堂で、最澄が最初に建てた一乗止観院が前身だそうだ。その後、災害のたびに大きくなり現在のものは信長が焼き討ちしたあとの1642年徳川家光によるものである。

 

最澄が起こしたという天台宗だが、留学した唐に天台宗があり、最澄はそれを日本に持ち帰った。しかし、それに加えて、密教や禅なども加えて独自なものにした。日本の天台宗の特徴は教観二門である。経典を学ぶだけでなく、座禅などの修行も行う。理論と実践の二本立てという意味だ。

 

滋賀県に産まれた最澄は若くして国家公認の僧侶の地位を得た。エリートだった最澄は、しかし比叡山にこもってしまう。私利私欲に溺れる僧侶が多いことへの危機感だった。

比叡山で修行している最澄の噂をきいて人々が集まるようになる。最澄は根本中堂の前身である一乗止観院を建てる。平安京遷都にあたり、比叡山はその鬼門にあるため、最澄は供養会を行った。これをきっかけに桓武天皇の信頼をえて、運営費も政府から支給されるようになる。

その後、唐に入学し、密教も学んで帰り、悪霊に悩まされていた桓武天皇を救ったことで、天台宗が国家公認の宗教となる。

そして最澄は入寂する。

 

延暦寺という名前がつけられたのは最澄の入寂後。嵯峨天皇から与えられた。延暦とは延暦寺が創建されたときの元号である。そして庇護者であった桓武天皇が即していたときの元号でもある。

 

最澄亡き後の天台宗は、密教の教義が弱いところがあったため、空海真言宗に遅れをとった。そのため、弟子達が唐にわたり密教を学び持ち帰った。それが貴族たちにも受け、天台宗は大きな勢力となった。

鎌倉時代には延暦寺で修行した僧たちが鎌倉仏教の創始者となった。

戦国大名ほどの力をつけた延暦寺は、武将との争いになることも多くなり、信長には焼き討ちされた。江戸に入り天海が延暦寺再興を行った。