沢村栄治

東京巨人軍の選手。背番号14番は永久欠番である。


プロ入り前の日米野球で唯一アメリカ打者を押さえ込んだのが語り草になったのは、以前紹介したとおり。
プロとしての全盛期は1936年、1937年。1937年には新設されたMVPになっている。しかし、その後戦争に召集される。手りゅう弾を投げるなどしたため、復帰したときには速い球を投げられなくなった。


そして、2度目の戦争召集。そして3度目に戦死。

京都商業学校卒業後には慶應義塾大学への推薦入学がほぼ決まっていたが、正力松太郎が強引に口説いて同校を中退させて巨人入りさせた。正力は「一生面倒をみる」とまで言ったという。しかし、巨人は戦地から負傷して帰った沢村を解雇し、約束は守られなかった。また、3度も召集を受けたのは学歴が中等学校中退であったからという説をとれば、中等学校を中退しての巨人入りは沢村のその後の運命を左右してしまったと言える。(wikipediaより)

話はそれるが学校中退だと戦争に召集されるというのも嫌な話だ。それにしても、MVPをとったような人が召集されたということは、当時はプロ野球はまだまだ知名度が低かったということなのだろうか。あるいは、戦争中では娯楽で商売をするようなスポーツや芸能関係はかえって目の敵にされたのかもしれない。


さて、どうしても気になるのは沢村栄治が現代ではどれほどのピッチャーなのかと言うこと。

しかし、165kmはやりすぎだろう。しかも、この2人が対戦したのは沢村が戦争から復帰してサイドスローでしか投げられなくなった後ということで、もう信憑性はゼロといっていいくらいだ。