著者:石原慎太郎
発行:1996年
弟
兄の慎太郎が書いた石原裕次郎の回想録。
慎太郎氏は1932年(昭和7年)生まれ。当時の社会・風俗などもわかって面白い。以下、あまり裕次郎とは関係ないが気になった部分について。


2歳違いの裕次郎は、青年期にはクラブだのなんだので放蕩生活に入る。慎太郎は一橋大学裕次郎慶應大学という大学の違いも影響している。どうも当時から慶應は遊びに関して最先端をいっていたようで、慶應生の名を騙る偽学生も夜の街に現れたようである。


慎太郎が最初に小説を書いたのは大学の同人誌である。それが、評論家にも見つけられ、文芸誌にちょっとした評論を書かれたらしい。その経緯や評論家の名前を本著で出しておくあたり、慎太郎氏は義理堅い人間にも見える。


その同人誌の作品の一部を抜粋し濃密に書き直したのが『太陽の季節』。当時は芥川賞はマスコミからまったく注目されておらず、受賞したときに家に取材に来た記者は一人だけ。


その『太陽の季節』は当時の若者の遊びや性やらの描写で保守層からは受け入れられなかったのだが、さらに一橋大学学生運動をやっている面々からも批判された。てっきり左翼層からは歓迎されるかと思ったのだが、やっぱり学生運動をやっている人は性には不寛容だったのだろう。


映画になった太陽の季節について慎太郎はミスキャストといい監督についても評価していない。次作の狂った果実は映画そのものも監督についても高く評価している。


三船敏郎を性格的にひ弱なところがあると論じているのが興味深い。この本では、慎太郎は三船を個人的に知っているとあるが、一方で慎太郎と三船が直接会話をした部分はこの本にはないのだ。何かあったのだろうか。


裕次郎が製作会社として独立して最初につくったのが堀江謙一のヨットでの太平洋横断。もっとも慎太郎によれば、彼のやったことはあくまで日本人としてはじめてというだけのことで、これを偉業としてあつかうマスコミやそれを訂正しない本人に違和感を覚えるとのこと。


慎太郎は4人の男児をもうけたが、裕次郎夫婦には子供がいなかった。そのため慎太郎宅に遊びに来た裕次郎と慎太郎三男が遊んでるときに、裕次郎が三男を養子にもらいたいと話し慎太郎はそれに応じたものの、話を聞いた三男は本気でおびえ拒んだという。三男は現在国会議員だが、石原家らしからぬ小心的な部分が顔にうかがえるのはこの出来事がトラウマになっているのかもしれない。