思考の整理学

思考の整理学 (ちくま文庫)
帯には東大・京大で3年連続1位とある。たしか、私が在学のときにも、けっこう売れてたはずなのだが、その時には何故か読まなかった。たぶん、売れてたから敬遠したんだろう。


もうちょっと堅いものかと思っていたら、実際にはエッセイ+今はネットでいたるところゴロゴロしてるライフハックといった趣だ。


実は、この本全体に流れる創造力至上主義ともいうべきトーンに少々違和感を感じている。
タイトルの『整理学』。情報を整理する目的は、創造力をつけることにある。これが書かれたのは1983年で、今の情報氾濫社会を予見をしてはいる。最終章に"コンピューター"とあるように、つまりは、情報を記憶するだけのコンピューターのような人間は、世の中から必要はされていかなくなっていく、これからは人間にしかできない創造的な仕事が重要視されるだろうと。しかし、実際にはそうなっただろうか。


もちろん、創造力のある仕事というのは広義では色々あって、この本でも、教育だとかセールスなどもコンピューターではできないという点で創造的な仕事としている。
ただ、創造力のある仕事というと通常連想される狭い意味での仕事、たとえば本とか音楽とかゲームとかのコンテンツ産業のような、簡単に言えば他と違ったものを造り出す仕事についていえば、むしろ暗い話題のほうが目立つようになってしまった。


よくよく考えてみれば、これは需要と供給という言葉でも説明がつく。情報の氾濫した社会というのは、情報の供給過多と言い換えることができる。ならば、情報の価格は下がっていくしかない。いや、物ならば値段を下げれば売れるということがあるが、情報の場合は金だけでなく時間を使うのである。値段を下げれば売れるというものでもなく、只だっていらないということだってあるぶん、より深刻に価値は下がっていくだろう。逆に、供給が少ない仕事についていえば、待遇がよい場合が多く、そして仕事内容が創造的とは言えないことも多い。


受験勉強のときにも、こんなことが言われていた。どれだけ新しい優れた参考書ができたからといって、東大のボーダーラインが10点あがったという話を聞いたことがない、と。既存のマニュアルだの、一番できる人間の真似をすることだって、できない人が多いのだ。それらを、完璧にするだけで、人は職に困ることはないだろう。


たいていの場合には創造力なんていうのは、最後に求められるものなわけで、自分に創造力が必要と考えている人は、それだけ能力も認められ、待遇の良い仕事についている等の幸せな状態にいる場合が多いと考えられる。
著者をはじめ、ほとんど全ての人間が情報化社会に求められる人間像を見誤っていた。そのことが何よりも興味深い。