ジムへ。久しぶりだなあ。
吉野家へ。優待券の期限が近いんだ。ライザップサラダに唐揚げ単品2個と豚汁おしんことつけたら千円突破してしまった。唐揚げは大きいので1個で十分だ。
今日のドラクエウォーク
ギガデーモンを倒している。倒すたびに相手のレベルがあがっていくのだ。22まで行った。一時期と比べると全然やらなくなった。だから課金は必要ないのだ。
藤井猛九段
上田初美女流四段
渡部愛女流三段
加藤桃子女流三段
2019/11/24(日) 09:40~
本所地域プラザ BIG SHIP (東京都墨田区)
参加費
■指導対局会
■懇親ランチ会
男性……2,500円
女性……2,000円
■解説会・トークショー
両国将棋学術会員……5,000円
ビジター……6,000円 ☆女性・小中高校生は5,000円
一般……6,000円 ☆女性・小中高校生は5,000円
プログラム
■指導対局会 9:40~12:00
藤井猛九段 10:50~12:00
女流棋士 [1回目]9:40~10:50、[2回目]10:50~12:00
■懇親ランチ会 12:00~12:50
プロの皆様には後半のデザートタイムよりご参加いただきます。
【定員】24名
■解説会・トークショー 13:20~15:50
◎解説会
・藤井猛九段 序盤の構想を語る
・女流棋士が藤井九段に尋ねる、序盤の組立て、直球な質問
・出演棋士4名全員参加 女流棋士の「自分流 心の鍛え方」、他
私は解説会・トークショーから参加。それでも6千円ってけっこういい値段だよね。今将棋界は人気があるからちょっと強気の値段設定なのかもしれない。でも、それでも行ってよかった。
まずは解説会。藤井九段の叡王戦の自戦記である。対羽生戦。2019年9月3日の叡王戦である。羽生さんとやったのは7年ぶり。その直近の対局は王位戦のタイトル戦だそうだ。
藤井九段は羽生さんとの対局については「私はもうやらなくてもいい」という思いだそうだ。
後手番となった藤井先生。後手番では藤井システムか角交換振り飛車を採用するのだが、それは気分次第だそうだ。しかし、この日は藤井システムを採用。理由の1つは、羽生さんとの対局が久しぶりで、顔を見たら年取ったなあ。羽生さんは足が痛いと言っている。自分も老眼や腰が痛い。
だから、今やると珍しい、懐かしい、藤井システムを採用したということである!そして、形は9五歩をついて他の筋の歩をつかない初期型の藤井システム。AIはこの形も悪くないと言っている。
中盤、羽生さんが考えただけで藤井さんは満足したそうだ。中盤に指した手は羽生さんにしては○○○○ないと思ったそうだ。
藤井さんはアマチュアとの指導対局では取れる歩は取るように指導している。しかし、羽生さんがすごい手付きで指した2四歩は怖くて取れなかった。だが、終盤はそれでも残っていたようで藤井先生の勝ちとなった。
それから渡部愛女流と加藤桃子女流の対局を藤井九段と上田女流が解説しつつ、次の1手問題を出題。2問出て、私は1問当てたが1問はずした。
上田女流:自分に子供が産まれた。子供にはどのように将棋を勉強させたらいいか。
藤井九段:自分は対局の数は少ない。もし当時ネットがあったら三浦くんとずっと将棋をしてる。30過ぎて自宅を建てたので若手を呼んで将棋をしたら弱くなった。それから数年後インターネット将棋ができるようになったが、やったらさらに弱くなった。指せばいいってものじゃない質だ。
勉強は日々反省、修正、繰り返していく。練習で失敗したらなぜ失敗したか、駒をならべる。初見は危険。でも2回目はうまくいくことが多い。
加藤女流:講座では藤井さんの本(四間飛車の急所)を勧めるが覚えられない。
藤井九段:あの本は、振り飛車を指す人が読んで気持ちよくなってもらう本。自分が四間飛車を指すのは4段になってから。このことを言うとイメージダウンになるかもしれないが、所司和晴のマニアックな本を読んで勉強した。それまでの本は中原先生や加藤先生が書いた振り飛車を木っ端微塵にする本ばかりだった。その後、振り飛車党にも公平な本が書かれるブームが起きた。
渡部女流:藤井システムをどうやって生み出したのか。
藤井先生:願望がある。将棋を指していると、自分の王様が端に近づく前に香車を上がってアナグマを匂わせ、咎めてみろというような遊びをされたことがある。でも、咎めるのは簡単ではない(だから咎める手を他の人は指そうとは思わない)
相居飛車でも、後手が8四歩をつかない相手がいる。それならば、先手も銀を7七にあがらず保留できるのではないかと考えるが、実際は形だからと7七に銀を上がる人が多い。
そういった将棋のオープニングに不満がある。陽動振り飛車や矢倉の後手右玉など。人の将棋を見て気に入らなかったらそれを分析し自分の手を加える(それによって藤井システムは誕生した)
当初の予定より、時間が1時間ほど延長してしまった。藤井先生を生で見られてよかった。
魏志倭人伝に238年に卑弥呼が義に使いを出したと書かれている。その後、中国の石碑に391年に倭国が朝鮮に出兵したと書かれている。当時、日本は文字がなかったので、この間の記録はまったくない。空白の4世紀と呼ばれている。
邪馬台国はどのように終焉したかも謎。
日本書紀によれば、神武天皇は日向から大和に来たとあるが、3世紀には奈良の纒向遺跡があるように既に大きな勢力があったことが推定される。そのため日本書紀の東征は脚色で、実は大和から西へ勢力を拡大していったのではないかとの論もある。
日本書紀によれば神武の即位は紀元前660年だが、これは実在が怪しい。ただし、実際の天皇がモデルになった可能性はある。考えられるのは10代崇神天皇、15応仁天皇又は16代仁徳天皇、26代継体天皇。王朝の交代を神武にあてはめたという考え。ただ、これらの天皇も王朝が(つまりは血筋が)変わったかどうかは不明。そもそも血筋を重視していなかった可能性もある。
倭の五王がだれか、2人ほどはあまり異論がないようだが、残りは論がいろいろ。そもそも天皇じゃない可能性もある。そのへんの豪族が中国に自分は王だと申し立てた可能性もある。倭の五王は中国に使いをさかんに出した。高句麗を牽制するため。
雄略天皇は兄弟や従兄弟を殺しまくって天皇になった。そのせいで天皇の血を引くものがすくなくなり、継体天皇は北陸からつれてきた。本当に天皇の血筋があるのか疑問視する学者もいたが、当時の文献から、天皇の子孫であるという根拠はあったようである。
ヤマトは当初は鉄剣や銅鏡などの威信財を地方にあげるなどして文化的優位で支配した。しかし、朝鮮の政情不安でそれらが手に入らなくなると武力で支配するようになった。
継体天皇は即位してから20年ほど大和に入らなかった。反対勢力が力を落とすまで待っていた。
日本で鉄の精製がされたというはっきりした証拠は6世紀後半になってから。
磐井の乱は、日本書紀では役人の反乱となっているが、実際はヤマトの支配が及ばない北九州の王のような立場。ヤマトと日本統一戦争のようなものが起こったのではないか。
天皇と呼ばれたのは天武天皇の頃。昔は王と呼ばれたが、ヤマトの頃は他の地域との優位性を出すため大王という呼称が使われた。そして中国とのかぶりを避けるため天皇と呼び名が使われた。