日本の古代史 ヤマト王権(別冊宝島)

日本の古代史 ヤマト王権 (別冊宝島)

魏志倭人伝に238年に卑弥呼が義に使いを出したと書かれている。その後、中国の石碑に391年に倭国が朝鮮に出兵したと書かれている。当時、日本は文字がなかったので、この間の記録はまったくない。空白の4世紀と呼ばれている。

邪馬台国はどのように終焉したかも謎。

 

日本書紀によれば、神武天皇は日向から大和に来たとあるが、3世紀には奈良の纒向遺跡があるように既に大きな勢力があったことが推定される。そのため日本書紀の東征は脚色で、実は大和から西へ勢力を拡大していったのではないかとの論もある。

 

日本書紀によれば神武の即位は紀元前660年だが、これは実在が怪しい。ただし、実際の天皇がモデルになった可能性はある。考えられるのは10代崇神天皇、15応仁天皇又は16代仁徳天皇、26代継体天皇。王朝の交代を神武にあてはめたという考え。ただ、これらの天皇も王朝が(つまりは血筋が)変わったかどうかは不明。そもそも血筋を重視していなかった可能性もある。

 

倭の五王がだれか、2人ほどはあまり異論がないようだが、残りは論がいろいろ。そもそも天皇じゃない可能性もある。そのへんの豪族が中国に自分は王だと申し立てた可能性もある。倭の五王は中国に使いをさかんに出した。高句麗を牽制するため。

 

雄略天皇は兄弟や従兄弟を殺しまくって天皇になった。そのせいで天皇の血を引くものがすくなくなり、継体天皇は北陸からつれてきた。本当に天皇の血筋があるのか疑問視する学者もいたが、当時の文献から、天皇の子孫であるという根拠はあったようである。

ヤマトは当初は鉄剣や銅鏡などの威信財を地方にあげるなどして文化的優位で支配した。しかし、朝鮮の政情不安でそれらが手に入らなくなると武力で支配するようになった。

 

継体天皇は即位してから20年ほど大和に入らなかった。反対勢力が力を落とすまで待っていた。

日本で鉄の精製がされたというはっきりした証拠は6世紀後半になってから。

磐井の乱は、日本書紀では役人の反乱となっているが、実際はヤマトの支配が及ばない北九州の王のような立場。ヤマトと日本統一戦争のようなものが起こったのではないか。

 

天皇と呼ばれたのは天武天皇の頃。昔は王と呼ばれたが、ヤマトの頃は他の地域との優位性を出すため大王という呼称が使われた。そして中国とのかぶりを避けるため天皇と呼び名が使われた。