語りだす奈良 118の物語

語りだす奈良 118の物語

奈良国立博物館学芸部長の人が書いたエッセイ

 

博物館の立場として

正倉院展(戦時中、空襲を恐れて、正倉院の宝物は木造の校倉から取り出され、コンクリートで屋根を補強した宮内省の事務所と奈良帝室博物館(現在の奈良国立博物館)の蔵に移された。戦争が終わり、宝物は校倉に戻ることになった。その時、地元から嘆願書が出された。せっかく博物館まで来ているのだから、博物館で展示してから戻してほしい。それで1946年開催、現在まで続く)は気が抜けない。終わって正倉院に返すまでが仕事

・先輩から言われた言葉。ここでは人より物が大事。人の替わりはいくらでもいるが物の替わりはいない。

 

仏教について

・死ぬとは、先に亡くなった大切な人にまた会えること。素敵なみやげ話をたくさん持っていくために、その時まで精一杯生き切る。私に言えることはそれしか

 

・ある人が質問した。「念仏をしようとすると、なぜか眠くなってしまいます。どうしたらいいでしょうか」  法然上人は答えた。「眠くなったら寝なさい。そして目が 醒めたら念仏をしなさい」  これは素晴らしい返答だ。

 

・仏教の大切な考え方に「縁起」がある。AがあるからBがある。AがなければBはない。このように何事にも必ず原因があるという考え方が縁起の思想である。言い換えると「どんなことにもわけがある」ということで、「すべてはつながっている、だからひとりじゃない」という意味にもなるが、「ジュピター」の歌詞には、「意味のないことなど起こりはしない」「深い胸の奥でつながっている」「ひとりじゃない」とあり、これはまさに縁起の思想である。 

 

歴史的豆知識

・苦労の末に日本に着いた時には、まだ目が見えておられた。正倉院に伝わる鑑真の手紙は、ご本人でなければ、そして目が見えていなければ、書けないもので

聖武天皇光明皇后の行動には、盲目の高僧に対してならするであろう特別な対応はまったく何もなく、鎌倉時代に制作された絵巻をみると、鑑真は日本に来てからも、ちゃんと目があいている。鑑真和上は目が見えた。これが当時の常識である。  

 

光明皇后が書いた 楽毅論 を拝見すると、文字の順の間違いや脱字が意外なほど多い。最後に「天平十六年」を「天平六」と書きかけて、太い線でわからないよう(よくわかりますが)訂正するなど、細かいことはあまり気になさらない性分のよう