スタルヒン

スタルヒン。名前は聞いたことあったがロシア生まれとは思わなかった。てっきりアメリカだと思ってた。ロシア革命で逃れてきたということだ。


42勝はいまでも日本記録である。しかもその1939年は1チーム96試合で68試合当番であるから、おそるべし登板率、おそるべし勝率である。


wikiによると父親が殺人をしてしまったということだ。戦前の外人なんてかなり嫌な思いをしただろうに、そのうえ父親が殺人となると大変だ。それでも、記録によると
周りから支援があったということで、それが正しいと信じたい。


中学中退と全日本チーム、そして巨人入団への背後には日米戦を主催していた読売新聞オーナー・正力松太郎の意思があり、スタルヒンがこれに従わねばならなかったのは、「読売買収以前は警視庁の実力者だった正力が、父の犯罪歴をたてに日本国籍のないスタルヒン一家を恫喝したからである」と作家の佐野眞一は著書の中で断言している。

まったく正力はここでも非道なふるまいをみせる。


1939年には、日ソ間で大規模な軍事衝突(ノモンハン事件)が起こるなど、日本人のロシア人に対する感情が悪化したため、1940年に「須田 博(すた ひろし)」に改名を余儀なくさせられた。さらに、日本がイギリスやアメリカと対戦した太平洋戦争の戦況が激化した1944年には、日本はソビエト連邦と中立条約を結んでいる上に、スタルヒン白系ロシア人であるにもかかわらず「敵性人種」として連行され、多くの交戦国や中立国の在留外交官等と同様に軽井沢へ軟禁された。だが、スタルヒンは無国籍者だったため徴兵されることはなかった。東京巨人軍は職業野球存続のために、スタルヒンを球界から追放した。

まったく巨人は今も昔も冷たい球団だ。


そして彼の最期は謎である。

1957年1月12日22時40分頃、都内で行われた中学校の同窓会に出席するため、自宅のある港区南青山から自動車を運転し、世田谷区三宿にある国道246号を走っていた。しかし、当時敷設されていた東急玉川線三宿駅付近で、前の車を追い越そうとして二子玉川園行き電車と衝突、即死した。


友人の証言によれば、スタルヒンは同窓会の会場と逆方向へ車を走らせている上、乗っていた同窓生を車から降ろし、電車で行くように指示しているなどしており、いささか不可解な死として伝わる。その直前には友人が経営するボウリング場の開場式典に出席、飲酒しており、泥酔状態ではなかったが飲酒運転だったという。スタルヒンの遺体は秋田県横手市雄物川町に位置する、妻の実家である崇念寺に葬られた。亡命から最期まで無国籍だった。