氷河期世代論

氷河期世代という名前がいつの間にか誕生している。氷河期世代の高齢フリーターに特別な救済策を設けるか、あるいは氷河期世代に限らず高齢フリーターをどうするかというのは大きな問題ではある。
ただ、それ以前に私が気になっているのは、氷河期世代の主張をブログなんかで読むと、当時はフリーターになるのも当然だった、求人数が少なかったというだけのものが多い。それはそうなんだけど、それ以上に当時の雰囲気というのは今とはかなり違っていて、その影響も大きいと思う。それを説明しないと、氷河期世代というものは理解されないと思うので、私なりに当時を振り返ってみた。



社会全体への影響も大きかったが、とりわけ氷河期世代に影響を与えた重大な出来事が1990年代後半に二つ起こった。氷河期世代が10代後半を過ごしていたころのことである。
ひとつはオウム真理教の起こした一連の事件。もうひとつは山一證券の破綻である。もう、10年以上も前のことになるので一応説明しておこう。オウム真理教というのは新興宗教のひとつで信者が地下鉄に毒物をまいて人を殺したりした。普通の人間の感覚で言うと異常者の集団である。その教団の幹部に東大をはじめとする学歴エリートがいたことが問題となったのである。山一證券というのは、古くて大きい会社でつぶれるわけないと思われていた会社である。それが、不景気によってあっさりとつぶれた。
その2つの事件によって、世の中の見方というのは大きく揺らぐことになった。それまでの一流大学から一流企業という成功コースと言われていたものが、激しく価値を落とすことになったのである。もうバブルがはじけて数年がたっていた。不景気は慢性的なものになりつつあったが、一方で格差などという言葉は使われておらず生活の不安を感じない程度には豊かさは残っていた。ただ、時代の変化というものが急速に迫っていることは感じられた。思えば、とても混乱した時代だったと思う。価値観は揺らぎつつも、次の時代を正確には誰も予測できなかった。ただひたすら、当時のシステムとシステムに乗ろうとする人間が否定された。


いわゆる、ゆとり教育というのもその流れの中で生まれたものと理解している。いわく、高度成長時代では、誰でもできることを要領よくできる人間が求められた。そういう人間を育てるためには詰め込み教育は役に立ったが、これからの時代は違う。新たな価値を創造できる人間、既成の枠にとらわれない人間が必要であると。
もちろん、氷河期世代ゆとり教育のカリキュラムとは無縁だったが、進学や就職を目前に迫ったときの、この価値観の転換はかえって深刻な影響を与えたのではないかと思う。
たとえば、オウム事件の後の専門学校のテレビやラジオでのCM。そのころは今と違って子供の数が多かったというのもあるのだが、かなり記憶に残っている。「偏差値から資格の時代へ」とか「あなたの個性を生かす」などの言葉が使われていた。自分探しなどという言葉が使われるようになったのも、たぶんこのころだ。誰にでもできることでの競争よりも自分にしかできないことを見つけることが上等だと思われた。
当然、就職も、その延長にあることになる。進学と同様に就職についても明確な序列というものは否定された。単に待遇が良いからというだけで就職先は選ばなかった。需要が多く供給が少ないから、この業界に進もうとかいう実利的な見方はしなかったのである。自分らしさが求められた。氷河期世代にとって仕事とは自己実現だったのである。働くことに意味づけが必要だった。意味を見つけられない人はニートになった。


今、就職率が回復しているという。単に景気が回復したから、人手不足になったからというのもあるだろうが、おそらく就職観というのも変化しているのではないだろうか。ネットカフェ難民ワーキングプア下流などなど、ほんの数年間の間にいくつものキーワードが誕生した。こういった世の中になれば、働くことの意義も変化せざるをえない。単に生きるため、良い賃金、良い待遇を得るための就職といった考えになっていても不思議ではない。


氷河期世代の悲劇というのは、ここにあったと思う。就職を自己実現と捕らえた世代が、よりによって一番の氷河期にぶつかってしまったのだ。理由はいくつもあげられる。第一に、そのころはまだ貧困が現実化していなかった。そして情報も少なかった。当時、インターネットからして普及していなかった。代々木アニメーション学院の就職率100パーセントをネタだと笑うこともできなかった。勝ち組、負け組などという言葉がある。本人の実力とは関係なしに、業種や会社によって待遇がまるで違うというわけだが、そんな単純なことさえも当時は誰も言わなかった。最後に、繰り返しになるが、当時はフリーターを礼賛する向きがあったことを指摘しておきたい。当時の本を読めばフリーターを肯定的にみるものがいくらでも出てくるだろう。フリーターが大量発生するのも無理はない話である。一度フリーターになった人が這い上がるのが難しいということは、いまさら言う必要もないだろう。



氷河期世代というのは、価値観の転換に取り残された世代だと思う。時代の変化を感じ取り、おそらく進学先も真剣に選んだだろうし、バブル世代と比べれば勉強も就職活動も苦労しただろうが、いっぽうで就職を「自己実現」とする見方を変えることはできなかった。好景気の末期のような爛熟した貴族社会のような、働くことに意味づけを必要とした。
今の目から見れば、すべて自己責任といわれるかもしれない。ただ、考えてほしいのだが、「自己責任」という言葉だって、ほんの数年前までは使われていなかったのだ。この自己責任という考え方だって、数年後にはどうなっているかわからない、時代に影響された考え方だとも言える。私はつくづく思う。時代に影響されない考え方というのはとても難しい。