今日もアラームの前に目が覚めた。ぐっすり眠ったこともあるが、起きる時刻が体に染み付いてるだけの可能性もあるね。


店の前をとおって能年らしき自転車があるのを確認して店に入る。能年いた。これは彼女の自転車で間違いあるまい。
ただ、残念なのは先客がカウンターの奥にいて話しやすい場所に座れなかったことだ。
私、前に月木飲んでると彼女に言ったことがあって、そして彼女が月木出勤してくれていて、それがちょっと嬉しかったりする。

Never Say Die! / BLACK SABBATH

1978年
Never Say Die
1. Never Say Die, 2. Johnny Blade, 3. Junior's Eyes, 4. A Hard Road, 5. Shock Wave, 6. Air Dance, 7. Over to You, 8. Breakout, 9. Swinging the Chain


どうもブラック・サバスファンには受けが悪いようだ。確かに、これまでの作風とはガラッとかわって、とがった部分はないとは言える。でも、良質な曲はちらほらあるわけで、ファンはこういったのも聞いたほうがいいだろう。

稀勢の里のこった日記 引退の言葉

稀勢の里、土俵人生で一番忘れられないのは「天皇賜杯を抱いた時」…引退会見一問一答
1/17(木) 6:14配信 スポーツ報知
稀勢の里、土俵人生で一番忘れられないのは「天皇賜杯を抱いた時」…引退会見一問一答
賜杯を手に笑顔の稀勢の里
 現役を引退した横綱稀勢の里が16日、東京・両国国技館内の相撲教習所で、師匠・田子ノ浦親方(元幕内・隆の鶴)とともに会見に臨んだ。この日の不戦敗で、横綱在位12場所の通算成績は36勝36敗97休。番付最高位として期待に応えられなかったが、19年ぶりに誕生した日本出身横綱として「いい環境、歓声の中で相撲を取れたことは、力士として幸せなことでした」と感謝した。

 ◆稀勢の里に聞く

 ―昨日から引退までの気持ち、心の動きは。

 「もうやり切った、という気持ちが一番最初に出ました」

 ―17年間の土俵人生を振り返って。

 「本当にいろいろな人に支えられて、一人じゃここまで来られなかったと思います。本当に感謝の気持ちでいっぱいです」

 ―引退を決断をした今の心境は。

 「(大好きな人気漫画・北斗の拳に登場するラオウの名セリフを意識したかのように)私の土俵人生において一片の悔いもありません」

 ―一番心に残っていることは。

 「もうありすぎてね、なかなか思い出せません。やはり、稽古場が僕を強くしてくれたので、稽古場での思い出が今でも残っています」

 ―場所前の体の状態、けがの状況などは。

 「けがをして以来、自分の中では一番良い動きができていた。自信を持って臨めました」

 ―けがから2年。けがを抱えながらどういう思いで横綱を務めてきたか。

 「こうして横綱に上げてもらった。このまま潔く引退するか、ファンの方たちのために相撲を取るか、いつも稽古場で自問自答してましたが、やはり応援してくれる方のために相撲は続けようと。そういう覚悟を決めてやってきました。このような結果になって、本当に申し訳ない」

 ―先代師匠の故・鳴戸親方にどう引退を報告するか。

 「本当に感謝の気持ちを伝えたい」

 ―横綱になったら見える景色が違うと先代から言われてきた。実際に横綱になってみて、どう感じたか。

 「やはり大関横綱というのは、全く違うものでした。ですが、先代の見ていた景色はまだ見えなかった」

 ―横綱はどういう地位か。

 「自分自身を、変えてくれました」

逃げない諦めない  ―土俵人生で貫いてきた信念は。

 「絶対に逃げない、諦めない、その気持ちです」

 ―涙はどういう気持ちからか。

 「ふ〜。いろいろな人に支えられたなと思いまして。先代を始め…、思い出すとどうしても…」

 ―横綱になって何が変わったか。

 「大関時代、幕内、十両もそうですけど、全く環境が変わりました。自分の意識も変わりました。本当に自分自身が変わったなと。意識の部分もそう。説明しにくいですけど、自分を本当に変えてくれたなと思います」

 ―新弟子で通った相撲教習所での会見。入門した頃の思い出は。

 「関取に上がりたい、早く大銀杏(おおいちょう)を結いたい、ただその気持ちだけでした」

 ―日本出身横綱としての期待が重圧だったのか。

 「いい環境、歓声の中で相撲を取れたことは、本当に力士として幸せなことでした。本当に良かったです」

 ―17年間の力士人生。誇れるものは。

 「一生懸命、相撲を取っていたこと。ただそれだけです」

 ―今までの力士人生で一番忘れられなかった光景は。

 「天皇賜杯を抱いた時です。うれしかったです」

限界だった左腕…稀勢の里が「前へ」歩んだ相撲道
1/17(木) 7:30配信 日刊スポーツ
限界だった左腕…稀勢の里が「前へ」歩んだ相撲道
引退会見で涙を拭う稀勢の里(撮影・鈴木正人
<とっておきメモ>

横綱稀勢の里(本名萩原寛、32=田子ノ浦)が、約17年に及ぶ波乱に満ちた力士人生に別れを告げた。稀勢の里を取材した日刊スポーツ記者が、とっておきの秘話を紹介する。

【写真】栃煌山の攻めを耐える稀勢の里

   ◇    ◇

9年ぶりに相撲担当に復帰した13年4月から、稀勢の里に言われ続けてきたことが「2つ」ある。

1つは「何か話すとニッカンは漏れなく記事になるからなぁ。怖い、怖い」。

思えば、よく書かせてもらった。中には困らせたこともあっただろう。だが、あえて書かなかったこともある。今は違う、と自己判断して、つい最近まで誰にも知らせずに。だが、書くべきときが来てしまった。

左腕はもう厳しかった。

感動的だった17年春場所横綱初優勝の後、協会に「左大胸筋損傷、左上腕二頭筋損傷で約1カ月」の診断書が出された。しかし、大阪から帰京後により詳しく検査を受けると、左腕は筋断裂していた。それも、手術をしようにも、できないほどの大けが。完治はおろか、10ある力のうち、6割出せればいい方だった。

良くも悪くも、あきらめを知らない男。投げ出すことができない男。周囲を鍛えることで、10ある力のうち7、8、9割に近づけようともがいた。その復活劇を、自分も信じたかった。

だが、3日目の栃煌山戦で、伝家の宝刀だった左のおっつけは力なく滑り抜けた。幾度となく相手を横向きにさせてきた武器が、もう出ない。現実が突きつけられるには十分だった。

あまたの熱視線を受け、こんなにも期待され、ため息に変えてきた力士はいない。ただ、どれほど批判され、苦境が続こうとも、想像以上の喜びに満ちあふれようとも、ぶれなかった。それが稀勢の里だった。

待望の初優勝と横綱昇進を果たした17年初場所後、取材申し込みが殺到した。中には、大抵の人は喜ぶような有名雑誌からも来た。それをあっさりと断った。「優勝したから話を聞かせて、というのは違う。苦しいときもずっと見てきてくれた記者さんたちの方を大事にしたいじゃない」。

思えば、昔から律義だった。最初の担当時代の04年、新十両昇進による初サインを読者にプレゼントしたいと考えた。約束してくれたが、サインが許される番付発表の日はほかに会見があり、訪問は早くても午後になる。“初”はあきらめて部屋を訪れた。色紙に記したのは「萩原」という普通の楷書体。およそサインらしくない字体だったが、雑誌で練習したと笑い「1号っすよ」と言った。待っていてくれた。

それから13年が立ち、2度目の担当を離れることになった17年秋巡業で、再びサインをくれた。色紙には「好きな言葉」だという2文字が添えられてあった。

「前へ」

けがに悩まされていた自分自身への問いかけのようにも思えた言葉だった。

相撲以外には冗舌だった。興味の幅は広く、エアロビクスやスカッシュ、セパタクローなどの大会をわざわざ録画する。武道も好み、合気道は習いにも行った。「やっぱり何かあるんだよ。(体重50キロの)おじいさん先生に持ち上げられたから。体が浮いたもの。力じゃないんだよね」。呼吸法など多くを取り入れた。

だが、相撲については多くを語らない。彼と向き合うとき、どんな質問で言葉を引き出そうか、勝負に挑む気持ちだった。真っ向から受け止めてくれるときもあるが、簡単にあしらわれることの方が多かった。行きすぎると「ニッカンらしい質問だね」と言われて「場所が終わったら話すよ」「やめたら話すよ、いくらでも」と。この言葉も何度、聞いたことだったろう。

その日が来るのは、まだ先のことだと願いたかった。まだまだ前へと歩む姿を見たかった。早熟にして晩成の相撲人生。やっと横綱稀勢の里時代が訪れたと思っていた。多くの人と同じく、自分も無念で寂しい。

ただ、横綱はこうも言っていた。「『あのときは良かった』と思ったら終わり。過去の栄光のことを言われて喜ぶような人間には絶対になりたくない。今やれると思えれば必ず復活するためにやる。やる気がなくなったら、そのまま…」。

だからこそ信じる。稀勢の里は相撲人生をやり切ったのだと。【03〜04、13〜17年担当=今村健人】

復活阻んだ稀勢の里の誤算、もがいた日々を父明かす
1/17(木) 7:30配信 日刊スポーツ
復活阻んだ稀勢の里の誤算、もがいた日々を父明かす
引退会見で涙を流す稀勢の里(撮影・鈴木正人
横綱稀勢の里横綱昇進後、在位12場所中、皆勤2場所に終わった。新横綱として初めて臨んだ一昨年3月の春場所で負った大けが致命傷になった。けがとの闘い、その裏にあった決断などを、最後に皆勤し、2桁勝利を挙げた秋場所前の昨年9月に父萩原貞彦さん(73)が明かしていた。引退に際し、もがき続けた父子の戦いの跡に迫る。

【写真】土俵に手をついて悔しがる稀勢の里

【取材・構成=高田文太】

     ◇   ◇

稀勢の里を相撲界へと導いたのは、元アマチュアボクサーの父貞彦さんだった。後の横綱、寛少年に土日の大相撲中継を見せ、小学校2年でまわしをつけさせた。英才教育だった。

最初の進退場所となった昨年9月の秋場所前に、貞彦さんは稀勢の里のけがとの葛藤、復活プラン、素顔などを明かしている。

横綱の力士生命を縮めたのは新横綱で迎えた一昨年春場所13日目、横綱日馬富士戦で負った大けがだった。寄り倒されて左の大胸筋や肩を痛めて、うめき声を上げた。だが、千秋楽で大関照ノ富士を優勝決定戦の末に退け、逆転優勝で大きな感動を呼んだ。

ただ代償は大きく、その後、横綱として歴代ワーストの8場所連続休場。当時を振り返り、貞彦さんは「復活に向けて2つの選択肢があった」と明かしていた。(1)突き、押しを多用して相撲を変える。(2)もう1度、基礎から鍛え直す。稀勢の里は(2)を選んだ。貞彦さんは「相撲を変えるのは簡単。でも、また強い四つ相撲を取るために、基礎から鍛え直す道を選んだ。時間がかかるのは承知の上」と説明していた。長期休場をも覚悟。その上で、目先の白星より再び何度も優勝できる可能性に懸けたのだった。

しかし誤算があった。負傷した左大胸筋、左上腕二頭筋の状態だ。貞彦さんは負傷前と比べて、たった30%程度の力で一昨年夏、名古屋の両場所に臨んだとみていた。一昨年九州、昨年初の両場所でようやく50%程度。そして10勝した昨年秋場所で「70%ぐらいまで戻った」とみていた。それでもまだ7割の力だった。

そんな中、出場しては途中休場を繰り返し「回復具合を見誤った」とも父は分析する。けがをする前と同じスタイルで、稀勢の里の王道を貫き、復活を目指した。その決断は尊重しつつ、出ては休む、その判断を後悔もしていた。

大けがを押しての感動の逆転優勝。代償は大きく、8場所連続休場で風当たりが強まった。その裏で貞彦さんも息子とはまた別の厳しい現実と向き合っていた。胃がんの手術を受けたのは、昨年11月の九州場所中だった。胃の3分の2を切除。手術から10日ほどで退院した。完全復活を目指す息子より先に元気な姿になった。転移や後遺症もなく元気に過ごしている。

けがとの壮絶な闘いを続けていた稀勢の里は「良い医者を知っているから」と千葉・松戸市の病院を、人知れず手配した。心配をかけまいと父には直接連絡しなかったが、母や姉には逐一、父の経過を確認していた。父の手術は周囲に一切伏せ、成績不振で九州場所は途中休場したが、その言い訳には一切しなかった。絆で結ばれた父子は、人知れず、互いに闘っていたのだ。

横綱昇進後の約2年、貞彦さんは苦悩する稀勢の里を見続けてきた。強さで存在感を示すことができなかったが、若い衆のころは1日100番にも及ぶ猛稽古で番付を上げた。関取衆となっても、他の部屋が四股やすり足などの基礎運動に終始したり、休みに充てたりといった初日2日前に、50番も取っていた。

努力で成長してきた稀勢の里を象徴するように、貞彦さんは、中学の卒業文集の存在を明かしている。将来の横綱、寛少年はしっかりとこう書いている。

「天才は生まれつきです。もうなれません。努力です。努力で天才に勝ちます」

努力に次ぐ努力で苦難を乗り越えてきた、人間くさい横綱が、ついに土俵を去った。

横綱になった息子について、この日、父は「(引退の話は)聞いている。なんとも言えない」とだけ口にした。言葉少なだったのにはわけがある。今場所は、あらゆる取材を断っていた。場所前には横綱審議委員会(横審)から史上初の「激励」を決議された。いよいよ後がない場所に集中させたい親心からの配慮だった。厳しい結末になったが、たくましい父子は、しっかりともがき、耐えてこの日を迎えたのだった。

報道陣からも逃げなかった稀勢 子どもたちに伝えてくれた「全力で過ごす」
1/17(木) 9:30配信 スポニチアネックス
報道陣からも逃げなかった稀勢 子どもたちに伝えてくれた「全力で過ごす」
引退会見であいさつする稀勢の里(撮影・村上 大輔)
 ◇横綱稀勢の里引退

 相撲に真っすぐなゆえに、取っつきにくいイメージのある稀勢の里だが、大事な局面ではきちんと取材に応じてくれる。九州場所後の横綱審議委員会で「激励」を審議され、冬巡業は全休。状態を知りたい記者は田子ノ浦部屋に足を運んだ。稽古は非公開も、“出待ち”している報道陣に「良かったです。体を動かさないと」と話すなど、苦境であるにもかかわらず記者をないがしろにしなかった。この日の会見では土俵人生で貫いてきた信念について「絶対逃げない。その気持ち」と話した。報道陣が相手でも逃げなかった。

 ただ、顔が知られるまでは苦労させられた。記者が相撲担当に戻ったのは16年4月。同年6月に香川県観音寺市田子ノ浦部屋合宿に足を運び、子供向けの新聞の取材を依頼したが、なかなかOKを出してもらえなかった。それでも粘り続けた記者に対し、合宿最終日に時間をつくってくれた。そこで色紙に書いてもらったメッセージは「全力で過ごす」だった。どんな分野でも全力で過ごせば結果はついてくることを子供たちに伝えてくれた。稀勢の里はその7カ月後、初優勝と横綱昇進を果たした。やはり全力で生きた男の最高の舞台を取材できたのは、記者冥利(みょうり)に尽きる。 (相撲担当・佐藤博之 1997〜2000、02、16〜19年担当、スポーツ部専門委員)

稀勢の里の荒磯親方が“親方デビュー”「すっきり寝られた」自虐ジョークも
1/17(木) 15:33配信 デイリースポーツ
稀勢の里の荒磯親方が“親方デビュー”「すっきり寝られた」自虐ジョークも
あいさつ周りの最中、笑顔を見せる荒磯親方(元横綱稀勢の里)=両国国技館(撮影・中田匡峻)
 「大相撲初場所・5日目」(17日、両国国技館

 16日に現役を引退した元横綱稀勢の里の荒磯親方(32)が東京・両国国技館を訪れ、協会の各部署にあいさつ回りし、“親方デビュー”した。

 午後1時過ぎ、羽織はかま姿で登場。まずは八角理事長(元横綱北勝海)の部屋を訪れ、「これからの人生が長い」とねぎらわれた。広報室、入場口など移動するごとに人が殺到し大混乱に陥った。

 取組はもう見られなくなったが、“時の人”に出会えたことにファンも感激。「かっこいい」、「頑張って」、「お疲れ様」、「牛久の星」など大声援がやまなかった。

 約50分、国技館中を歩いた新米親方は「国技館の2階に行くことはなかったし、最近は1階にも行くことはなかった。(ファンの声援は)いつも支えてもらった。うれしかった」と笑みを浮かべた。

 引退会見し、前夜は「すっきり寝られた」と吹っ切れた様子。「土俵に上がれないのはさみしい気持ちはあるけどこれからまた新しいスタート。一歩一歩進んでいきたい」と、話した。場所中に稽古をしない気持ちを問われると「休場が多かったからね」と、自虐ジョークで笑わせた。

稀勢の里があいさつ回り=国技館のファン騒然−大相撲
1/17(木) 16:25配信 時事通信
稀勢の里があいさつ回り=国技館のファン騒然−大相撲
日本相撲協会へのあいさつ回りで国技館を訪れ、ファンに囲まれる荒磯親方(中央、元横綱稀勢の里)=17日午後、東京・両国国技館
 16日に現役を引退した大相撲の荒磯親方(元横綱稀勢の里)が17日、日本相撲協会の幹部らにあいさつ回りをするため、東京・両国国技館を訪れた。

【コラム・土俵百景】稀勢の里の「稀」なる2年

 館内を歩くと、あっという間に大相撲ファンの人だかりができ、「お疲れさま」「ありがとう」の声が飛び交った。笑顔で応えた荒磯親方は「いつも支えてもらっていた。近くでああしてもらえてうれしかった」と話した。2階席に入った際には、取組中だった会場が騒然とする一幕もあった。

 「なかなか実感が湧かない。土俵に上がれない寂しい気持ちがある」と言いながらも、親方として気持ちを切り替えつつある。引退表明後の夜は「すっきり眠れた」そうで、「また新しいスタート。一歩一歩進んでいきたい」とすがすがしい表情を見せた。弟子の本格的な指導は初場所後に始める予定で、大関高安との三番稽古にも意欲を見せていた。